自己紹介
ブログをはじめるって言ったって、どこから話をしていけばいいのか・・・
ということで、とりあえず自己紹介をしようと思います。
1988年4月27日宮崎県日南市生まれ
現在20歳の大学生です。
4月27日を語呂合わせで「死にな」と読めることから自己紹介のときは「誕生日はシニナって覚えてください☆」と言う癖がついてしまっています。
実際に1歳になる前に心臓が止まって「もうダメです」と一度お医者さんに言われた経験があるそうです。
小学校6年生のときの修学旅行で親から手紙をもらう機会があったのですが、そのときに
「あんたは一度命を落としそうになったけど、そのときにいろんな人に見守られてみんなが「元気になれぇ」って願ってくれたから、元気になってここまで健康に大きくなれたんやで。まわりの人にやさしくできて、自分の命も大事にできる人になってくださいね」
と手紙に書いてあったことを覚えています。
不幸にして幸いを手に入れたという言い方が正しいのかどうかわかりませんが、僕は自分の命を落としかけることで、「命の尊さ」と「自分は生かされている」ということを知ることができました。これは僕の人生の中で大きな出来事だったことは言うまでもありませんし、僕のこれからの人生にも大きくかかわってくることは間違いありません。
「自分はなぜ生まれてきたのか」
「自分は何のために生きているのか」
たいていの人が自分の人生のうちに一度は悩むテーマだと思います。
僕はそんなテーマについて人と語り、自分という存在をお互いに確認し合う手助けをするためにこの世に生き残ったんだという使命感のもと毎日生活しています。
といっても、僕もひとりの人間。
だから人を傷つけてしまうこともあるし、人に腹を立てていまうこともしばしばあります。
僕が中学生だったころ自分に課した課題は
「すべてのことを許す」
でした。
誰に何をされても怒らない。
誰に何をされても悲しまない。
その対象が僕である限り。
つまり、僕は誰になんと言われようが、誰に何をされようが、感情的にならないようにしようと試みたわけです。
僕の中ではこの課題を実行することはいい訓練になりました。
だから少しは心が広くなったような気がしますが、やはり感情的になることはよくあったし、人を傷つけることもあったと思います。
僕の一番悪い癖は、この課題をこなしていたときそうであったように、自分の行動をすべて肯定的にとらえて、相手にもその考え方を強要してしまうことです。
「今の言い方は相手を傷つけるために言ったんじゃない」
と思って言ったことが結果的には相手を傷つけることにつながっていた、ということはよくありました。
少し伝わりにくいかもしれませんが、要は僕の発言に対しての僕と相手のとらえ方にはしばしば差があり、その多くの場合、相手が傷ついているということに僕自身が気づいていなかったということです。
そのおかげで現在の僕は自分の発するすべての言葉に最大限の注意を払うようになりました。それでもまだまだ不十分であることは言うまでもありませんが・・・。
このように自分自身に使命感があるにもかかわらず、やはり感情的になったり人を傷つけてしまったりすることもある、というのが僕の性格の一番核となる部分だと思います。
自分を優先するよりは相手を優先する、が僕のやり方です。
だけど、たいがい最後は「自分勝手」と言われるのがオチです。
僕の考え方では「相手の選択や発言は尊重するが、最終的に自分の言いたいことははっきり言っておく」というだけのことで、自分の意見が通らなければ不機嫌になるというものではないので、自分勝手だとは思わないのですが、議論中の態度や言い方次第では相手にそのように感じさせてしまうこともあるのかもしれません。
僕の発言や行動が人の目には権威的なものとして映ってしまうこともよくあります。これは自分でもよく感じるところです。
小学生の頃から人前に立つのが好きで、気づいたらリーダーの立場にいることが当たり前になっていました。
小学校時代は学級代表や部活の部長、児童会役員の委員長(といってもそんなに大したものでは・・・)を経験しました。
中学時代は班長に始まり、学級委員長、生徒会役員から生徒会長、部活の部長までかなり活動の幅を広げました。さらに中2と中3のときには文化祭における学年劇で主演を演じ、文化部の活動では和太鼓をたたくときに必ずと言っていいほどど真ん中でたたいて、部長ではなかったにしても、かなり重要な役をやらせていただきました。(文化部の活動は僕の人格を形成する上でかなり重要な要素を含んでいますが、それについては追ってお話します。)
高校時代は、学級委員長や生徒会にはかかわりませんでしたが、文化祭で3年連続主演を演じました。ほとんどの場合、台本作りからキャスティング、音楽にいたるまですべてを自分でやろうとして、「ひとりでやりすぎ」と逆に怒られることもありましたが、とりあえず自分でできることはなんでもしようと努力して、高3のときは脚本・音楽・演出・主演を務め、「巨匠」という称号をまわりの人から名づけていただきました。
勉強については、中学の頃からそれほど得意だとは言えませんが、成績だけはよかったことも助けて高校は学区内トップだと言われた学校に入学することができ、現在は大学にも通うことができています。
これだけ話すと、輝かしい経歴をもってすごい人なんだ、と思われることがよくあります。残念ながら僕は自分の悪い部分をあまり人にべらべら話すタイプではないので、自分にとって利益のあるようにしか話を進めません。しかも自分があたかもすごいことをしてきたかのように話してしまうので、すごいんだということしか伝えないこともよくあります。
ここで問題となってくるのが、まわりの人が本当に僕のことを「すごい人なんだ」と勘違いしてしまうことです。
冒頭の方で話したように僕は「ひとりの人間」です。
それにもかかわらず僕のことをすごい人なんだと思われると、みんなが言いたいことを言えなくなりますし、僕自身も調子にのってしまいます。僕の意見が最終的に通ってしまうことも増え、僕が求めている「それぞれの意見」というのを引き出せなくなり、たとえば演劇について言えば、みんなで作り上げた舞台にはならず、「僕の、僕による、僕のための舞台」になってしまいます。
これがさきほど述べた「僕の発言や行動がまわりの人の目には権威的に映ってしまう」理由のひとつです。
「南野の意見は実力と経験に基づいているから貴重な意見としてみなされる」
と言われたことがあります。
確かに、まわりの人と相対的に見て演劇や発言についての積極性を実力というのであれば僕はまわりの人よりも能力が長けていると言うことはできると思いますし、僕が今までに経験したことは「普通」という枠組みを設定した場合にはかなり特別なものが多く、有意義なものが多かったのも事実です。
ただ、それを僕のまわりの人たちは「利用しよう」とはしません。
僕は、自分の実力や経験をもってして、まわりの人たちの活動に貢献できれば、と思っていますが、だいたいの人は僕を敬遠するかのように僕がひとりでいろいろやっているのを傍観するだけに終わります。
「南野がこう言っているからこれでいこう」
という言葉は、僕にとって一番不確かなもので僕の恐れるところです。
僕の意見が通ってうれしいという気持ちがある反面、「反対意見はないのだろうか?」と考えます。「本当にこれでいいの?いいとしたらなぜこれでいいの?」と頭を抱えることもかなりあります。
当たり前のことですが、僕の意見が通らないこともよくあります。
しかし、そのほうが意見交換が活発になるので、僕の意見が逆にプラスに働く気もして、ある意味安心感さえ感じることもあります。
ただ、僕の意見が通ることが多かったせいもあるのか、僕の発言のしかたはしばしば「なぜ僕の意見じゃだめなんだ?理由を言ってみろ」という権威的にとらえられてしまう言い方が多いようで、貴重な意見を持った人に発言の機会すら与えず、僕がその人たちの発言意欲を殺してしまうこともよくあるようです。
しかし、僕の中では、「僕のこの意見に対して異議を唱えるのならあなたの見解を教えてください」ということを伝えたいだけなのです。そう思う一方で、なんとか僕の意見を聞いてもらおうと一生懸命で言い方が権威的になってしまい、最終的に僕の意見を押し付けてしまう結果につながるのかもしれません。
これが結果的に「僕が気づかないうちに相手を傷つけてしまう」という例のひとつです。
僕は自分の意見を言っただけに過ぎないつもりでも、相手からすれば「自分の意見を押さえつけられた」と勘違いさせてしまう、ということです。僕がただ自分の意見を乱暴に言い放つだけで、相手の意見をまったく聞かないタイプの人間だとすれば、悪いのは僕です。自分の経験に基づいて、それを提示しながら意見を言い、まわりの反応を見てさらに意見する、というのが僕のスタイルです。その「経験に基づく」というのが、フェアな話し合いをアンフェアなものとして相手を脅してしまうのかもしれません。「オレはこんなことも経験しているのだからオレが正しいと思わんのか?」というメッセージを僕が気づかぬうちに相手に送っているのかもしれないということです。
僕には使命があるにもかかわらず、その使命を果たす最大の努力をしているかといえば、そうではないと自分で感じています。出会った人の「自分さがし」を手伝うのと同時に、自分は自分の道を行く、というスタイルは崩さないままでいます。自分らしくあろうとするがゆえに相手を傷つけてしまうこともしばしば。考え方の違いに頭をかかえることも多いですが、それでも自分の意見を隠したりはしません。ぶつかってもぶつかっても、それがよりよい未来を見出す手がかりとなり、お互いの存在を確認し合う手助けとなり、自分が生きている理由が少しでも見えるようになってくるちからの糧となるんだと信じています。
短期間で見た僕の課題は「相手の意見を引き出す努力」です。それが自然とできるようになったとき、僕はもっといろいろなことを「許す」ことができるようになると思います。それに自分の世界を広げることにもつながるとも思います。
輝かしい経歴に溺れ、うぬぼれていた自分とはさよならしつつある今日この頃です。
そんな僕のことがほんの少しでもわかっていただけたら今日これ以上の幸せはありません。
南野亮
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