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2008年12月

2008年12月31日 (水)

私がすべきだったこと

結局のところ私がしなければならなかったことはいたって単純なことであった。「差別について考えるきっかけ」を作りさえすればよかったのだ。というのも、話している私と私の話を聞いてくれている人との間に、社会であびこっている差別事象や人権についての知識の差はそれほどなかった。こと私自身においては、いくら勉強したところで、中学生の私に差別事象や人権について、人に自論を語るなんてことは不可能だった。

第一に、日本社会でおこった差別事件や身近なところではびこっている差別事象についての知識が少なすぎた。先人がどのように部落差別と闘ってきたのか、どのような解決策をとってきたのかをあまり熱心に勉強しなかった。少なくとも実際におこった出来事やその事象がどう対処されたのかくらいは知っているべきだったに違いない。しかし、私は人から話を聞く以外に、自ら部落差別についての本を手にとったりすることはしなかったのだ。

第二に、いくら知識があったところで、私が他人に自論を説くような明快に自論を展開するような余裕はなかった。専門知識がない上に予備知識もない状態で、どうやって人に自論を説こうか。所詮、中学時代の私の浅い思考では自分自身の考えを確立するにも至らない。見た目も中身も、まだまだ未熟な青二才だったに違いない。そんな状態で人に自論をひけらかすなど、恥さらしに過ぎない。ところが、当時の僕は人に自分の意見を語ることは自論を説くことを意味していると解釈していた。誰かに対して自分の意見を言うときは、自分の解釈を一通り相手に伝えるのが当たり前だった。それは相手に自分の意見を押し付けるような話し方であったと思う。

ひとこと断っておくと、私は自分が至らない存在であることを承知の上で自論をひけらかしていた。基本的に、学校の教員や地域のオトナたちは、十代前半もしくは十代半ばの学生にそれほどしっかりした意見を期待してはいない。むしろ、学生がどのように考えるのか、各個人の率直な意見こそが、彼らの知りたいところだったのだと思う。さらに、私自身を擁護した言い方をすれば、私は自分の将来のために積極的に自分の意見を言うようにしていた。自分の意見を自分の思っているとおりにはっきりと言える人間にならなければ、近い将来社会に出て働き始めたときに苦労すると子供ながらに判断したからだ。そのこともあって、私は自分の意見を積極的に言うようにしていた。ところが、悪いことに、そのことが自論を他人に押し付けるような私の悪い癖を形成していったのだ。

私が本当にしなければならなかったことは、「聞き手に考えさせること」だったのだと思う。私が一方的に話すのではなく、私の意見をある程度述べた後、あとは聞き手の意見を聞かせてもらう。部落差別について学んだり考えたりするきっかけを作るのが私の使命だった。私の知識を植え付けたところで、聞き手は何も学べない。むしろ不必要な私自身の見解を押し付けてしまうことになる。変な固定観念を植え付ける可能性さえある。それほどのリスクを背負ってまで、私は自論を説こうとは思わない。しかし少なくとも、中学・高校時代の私は、俺の意見が正しいのだから、みんな俺の話を聞け、という気持ちで聞き手に話しかけていたのかもしれないのだ。間違っていたと思う。

話を展開させていくうちに、自分の世界に聞き手をうまく引き込む話し手がいる。大きな講演会を持つような著名な人に限らず、日常で出会うような身近な人でさえ、驚かされるほど自分の話に引き込むのが上手な人がいる。彼らに共通して言えることは、自分の話をしたあと、相手の意見をしっかりと聞くところにある。自論だけではなく、相手の意見が加わった「会話」そのものが、彼らの「話し方」となるのだ。聞き手からしてみれば、自分も話題の中心にいるようで、会話にも力が入る。彼らのような話し方は、聞き手を話題に集中させる効果があるのだ。もちろん、彼らの自論がしっかり構築されていることも大前提としてある。自分の話の筋を通し、ぶれないように話を進めていく。絶妙なタイミングで聞き手が自然と質問をし、それに答えつつ話を次へと進める。これの繰り返し、つまり「会話」が彼らの技である。

話し手がいて、聞き手がいる。一見、話し手から聞き手への一方通行の会話になりそうであるが、それではお説教をしているにすぎない。会話を技術として、誰かに自論を説く。前述の自分の世界に聞き手を引き込む技である。これができれば、自論を押し付けるだけに留まらず、伝えたいことと考えてほしいことが一挙に伝わるはずである。かなり有意義な会話となるだろう。そのためには、会話中の相手との適切な距離感や相手に心を開いてもらえるような安心感を与える雰囲気を作ることが必要不可欠である。ただ、この技は一朝一夕で見につくようなものではない。時間をかけてたくさん経験を積むことによってのみ体得できるものだと考える。最終的には自分がほとんど話さなくとも、相手の意見を引き出すことのみで会話が成立するようにすることが目標となるといえる。常に相手の頭をフル回転させるような会話に持ち込むのだ。かなりの高等技術と経験が必要と思われるが、私が目指すところはそこである。

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2008年12月14日 (日)

モットー

中学2年生時の僕のモットーといえば

「あなたが微笑みたくない人にも1日5回微笑みましょう」(マザーテレサ・カトリック指導者)

でした。

今も昔も変わらないのですが、僕の性格は物事をはっきりさせたがる性格です。

中学校に入学したばかりの頃の僕は特に、「この人は好き」「この人は嫌い」というふうに人の好き嫌いをはっきりさせていた記憶があります。

しかしあるときふとこんなことを思ったのです。

「なんで人のこと嫌いになるんやろう」

そう思うようになったのとほぼ同時期に、上のマザーテレサの言葉に出会いました。

そこで僕はその言葉に対して素直になることを決めて、毎日嫌いな人に笑顔を見せる努力を絶やさないように心がけました。

まずは挨拶から。

とりあえず毎朝、顔を合わせたら「おはよう」を言うようにしました。

たとえ返事がなくとも、毎朝毎朝、笑顔で。

加えて、1日の中で嫌いな子と接する時間をなるべく多く設けました。

なにしろ1日に5回は微笑まなければなりませんでしたから。

そうすると、1週間もしないうちに、僕の心の中から「あの子が嫌い」という邪念はみるみるうちになくなっていきました。

はじめのうちは「こっとが挨拶してんねんから返事しろや」と思っていましたが、だんだん挨拶をすることが習慣化されていき、微笑むことについても違和感をまったく感じなくなり、いつの間にか自然と挨拶ができるようになったものです。

相手に対する感覚はというと、「相手のことが好きになった」とか、そういうものではありませんでした。

どちらかというと「許す」という表現のほうが合っているような気がします。

僕が人を嫌いになることの前提として、僕が嫌いになる人は僕に対して冷たい人で、言い換えれば僕のことが嫌いなんじゃないかと思えるような態度をとる人がほとんどでした。

僕はそれが許せなかったのです。

これだけ仲良くしようとこちらから迫っているのに、なぜそれに対してもっと友好的な態度がとれないんだ、という怒りというかもどかしさみたいなものを頻繁に感じていました。

「こっちが仲良くしてやってんだからそっちもそれなりに楽しそうにしろよ」という半ば権威的な態度で構えていたのかもしれません。

当時の僕の最大の問題点はそこにあったように思えます。

「自分がこうなんだから、相手もこう。そうじゃなきゃ嫌だ」

という固定観念というか、自分勝手な尺度で世界を測ろうとしていたような気がします。

嫌いな人にも微笑みかけるようになってからは、僕の世界はかなり広がったような気がします。今まで踏み込まなかった世界ともかかわりをもつようになったからです。

もっとも、人を嫌いになることは自分にとってマイナスである、ということはわかっていましたし、何より「あの人嫌い」という意識を持ちながら毎日のように顔を合わせるのはかなりのエネルギーを消費することにつながり、疲れるだけだということも感じていました。

まず、「嫌いな人」というのを定義している時点で、僕の中にはその人が自分に対してマイナスな影響しか与えないと思い込んでいたのですが、それが一番の問題だったのです。

自分に対してマイナスの影響しか与えない人なんていうのは存在しません。

すべての人は僕にプラスの影響を与えます。それが良いものか否かは別として。

「人の振り見て我が振り直せ」

という言葉がありますが、まったくその通りです。

人のことをあぁだこうだと言っているうちは、自分にも至らないところがゴマンとあるんだということを露呈しているに過ぎません。

それと、嫌いな人が嫌いな人となりうる原因のひとつとして、その人を見ていてイライラすること、というのがよくありますが、これはそのイライラする行為を自分自身も同じようにしているからイライラしてしまうのだそうです。

逆転の発想からいくと、嫌いな人の中にこそ僕が改善すべき事柄のヒントが隠されている、ということなのです。

まさしく、人の振り見て我が振り直せ、です。

マザーテレサの言葉を実行することによって、僕の意識が人の好き嫌いの感情を左右することを知りました。好きか嫌いかは、毎日微笑みかけるという行為、つまり僕の意識の持ち方次第でいくらでも変えられるということです。それに加えて、人を嫌いになるということはほとんどの場合、自分にとってマイナスにしかなりません。誰かのことが嫌いになるのであれば、同じように自分のなかに自分が許せない嫌いな要素を含んだ自分がいるのかもしれません。それを受け容れるためには、自分と向き合い、自分を更生させていくか、嫌いな人に微笑みかけて、「許す」しかないのだと、僕は思います。

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追記

今回は書きたいことがうまく表現できませんでした。途中話が脱線しかけてその部分を省いたり、書き直したりしているうちに焦点がずれ始めて、最後にむかって文全体がぼやけていったように思えます。

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